自由へのイノベーションに囚われて

イノベーションと生命科学のあいだ

量子的人間 ―個人、分人主義、猫―

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Photo by Lauren Kay on Unsplash

これは分人主義を批判するものでも、先に進めたものでもない。ただ、分人主義をある比喩で捉え直してみたら、よりしっくりきたという自己満足感を書いた娯楽だ。

 

個人という幻想

個人主義の世界は、わたしたちに矛盾のない、1本の芯の通った個人であることを求める。言動に矛盾があればとがめられる。酷いときには「多重人格」と揶揄される。そして、わたしたちは自分の矛盾に悩んだりする。でも人間ってそんなにシンプルだろうか。

家族に対する自分、恋人に対する自分、親友に対する自分、同僚に対する自分。これら自分が矛盾なく、一貫性あるキャラクターな人間なんているだろうか。

分人主義との出会い

わたしは小学生のころ、学校の野球部の他に、リトルリーグ*1、それからアイスホッケーのクラブに所属し、ほぼ年中無休で文字通り朝から晩までスポーツに明け暮れていた。

はっきりとは覚えていないのだけれど、あるとき、「野球部での自分」、「リトルでの自分」、「アイスホッケーでの自分」のキャラクターが全く違うことに気がついた。部活の友人に「キャラちがくね」と言われたこともあった。「八方美人」という言葉もあってか、なにか自分は芯のない人間で、卑怯で、道化なのではないかと悩んだ。後に高校の先輩である太宰治の『人間失格』を読んだときは心の深いところを揺さぶられた気がした。

でも、そうした複数の社会に所属する生活を続けているうちに、高校生のころには「人間ってそういうものだ」と考えるようになっていた。人間が1つの性格しか持っていないなんてバカらしいって思いながら、いろいろな高校に友人をつくってはそれぞれに少しずつ異なる自分を受け入れ始め、楽しんでいた。

学生になり、佐渡島庸平さんの『ぼくらの仮説が世界をつくる』を読んだ。その中で平野啓一郎さんが「分人主義」という言葉でまさに同じことを表現していることを知った。おこがましいかもしれないが、驚きは全くなかった。同じ考えの人がいたことに安らぎを覚えつつ、言葉を手に入れて一層の自信を手に入れていた。

量子的人間

大学1年の春、物理の講義で「シュレーディンガーの猫」を知った。シュレーディンガーの猫とは、量子力学でもっとも有名な思考実験の1つで、放射性物質と青酸カリをつかったなんとも恐ろしい箱にネコを閉じ込めて、「猫は生きている状態と死んでいる状態が1:1で重なり合っているのだ!」と解釈するものだ。

これを聞いたときはブラックジョークのようにおもしろいと感じたくらいだった。でもあるとき、この量子の不思議な性質と分人主義がつながった。

告白したとおり、わたしは知らず知らずのうちに分人主義の立場から、たぶん人間をなにか多面体のように捉えていたと思う。

でも、より正確には、わたしたち1人1人が持っている様々なキャラクターは、シュレーディンガーの猫のように重なり合っているのではないか。そして、猫の生死が観察されることで決定されるように、わたしたちも様々な他者に観察されることによってこそ、キャラクターが決定するのではないか。

わたしはこのアイデアを得て以来、ひとりで「量子的人間」と呼んでいた。「シュレーディンガーの人」と呼んでもよさそうだけど、ちょっと長い気がもする。とにかく、これが個人を捉えるうえで、いまのところ1番しっくりきているのだ。いま考えているのは、そうした複数の性格が互いに影響し合っていることをどう量子的人間に組み込むかということだ。これはいつか書けたらいいなと思う。

個人と環境はつながっている。明確に切り離せるようなものではない。極論、世の中の争いは「単純化」によって起こっていると言ってもいいのではと思う。世の中なんでもかんでもシンプルにし過ぎなのだ。そして、なんでもかんでも「わかった気」になりすぎだ。これは生物学の立場からすればしょうがない認知現象だ。けれど、科学と、そして科学を崇める人々が世界をもう少し複雑なまま捉えられるようになるにつれ、きっと少しずつ世の中は平和になっていくのだと信じたい。 

斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇 (文春文庫)

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ぼくらの仮説が世界をつくる

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*1:市内の小学校から野球のうまい小学生が集まる